Thursday, January 21, 2010

Monday, January 18, 2010

ドン・ウィンズロウ 往来堂かってに協賛エントリ

千駄木の本やさん、往来堂でドン・ウィンズロウ・フェアが開催中です。
フリーペーパー「往来っ子新聞」第30号もでていて、今回から桐谷知未さんによる「ドン・ウィンズロウ×東江一紀の魅力」という連載がのっています。

ドン・ウィンズロウはぼくも大好きな作家です。「犬の力」がミステリランキングでかなりいいらしいですが、やはりニール・ケアリーにも触れてほしい。ということで、以前書いたドン・ウィンズロウのニール・ケアリーもののレビューを再掲載し、勝手に協賛させていただきます。

高く孤独な道を行け
ドン・ウィンズロウ 創元推理文庫

ニール・ケアリーもの第三作目。今のところこれが一番好きかも。これの訳が1999年(前世紀!)なので、第四作、第五作もはやく読みたいなぁ、と思った。今回は、ネヴァダのカルト教団にさらわれた赤ん坊をとり返しにいく話。高く孤独な(the High Lonely)とは、ネヴァダの高原地帯。

この作品は、今までの二作といくつか違う点がある。それはまず、三作通じての定型がはっきりしてきたところだ。書き出しも、終わりもおなじ。書き出しはそれぞれ

ストリート・キッズ
断じて、電話に出るべきじゃなかった(1ページ1行目)

仏陀の鏡への道
断じて、ドアをあけるべきではなかった(1ページ1行目)

高く孤独な道を行け
断じて、振り向くべきではなかった(1ページ1行目)

否定形ではじまる。まぁこれは一種のお遊びと考えていいだろう。
終わり方は、ストリート・キッズでは、ヨークシャーの荒野で一人残り、7ヶ月、仏陀の鏡への道では、中国大陸の山中で一人残り、4年ほど、高く孤独な道を行けでは、ネヴァダの片隅に一人居残る。
終わり方をみてみると、ストリート・キッズのはじめから一度もニールはNYに定住していない。つまり流浪の探偵という定型だ。彼は一箇所に定住しない。行く先々でそこに最後には定住してしまう。それで次作はそこに急を告げるシーンからはじまる。うまいなぁ。これで次のシリーズも大河の一部として、そこだけで印象付けることができる。こうした、意地悪な人がよくいう「小手先の」テクニックは案外うまくいくものだ。

また、やっぱりこの主人公がハードボイルドの探偵像を大きく逸脱する「小僧」であることも共通している。つまり、理論的に行動していないのだ。すべて感情に流されて行動する。ふつう、ハードボイルドでは自分の行動論理に一定の基準があり、それゆえいくら感情的に行動しているように見えてもそれは「自分という掟」という理論がまずたつものだろう。ところが、このニール坊やにはそうした行動論理がほとんどない。

それが、今までのぼくの不満だったのだけれど、今作ではそのあたりに「なるほど」と思わせる箇所がいくつかあって、
ニー ルの中には、いくつもの人格があるのです。(中略)しかし、ニール自身の人格はありません。うちの会で仕事を始めたころ、や つはほんの小僧っ子でした。同じ年ごろの子どもらが自分という人間を作りあげていく時期に、やつはでっち上げの話ばかりこしらえていました。カメレオンと 同じで、周りに合わせて自分の色を変えるんです(P.234)
探偵はうその塊なんだよ、カレン。自分の正体を隠すことにはじまり、かく して、かくして、他人になりすまし、ようやく元の自分に返ろうとしたときには、そ の自分が見つからなくなっている。大切にしまいこんだ小さな宝物みたいに、長い年月がたつと、しまった場所を忘れてしまうんだ。(P.288)
この少年探偵は、自分の行動規律をいま、まさに作っている最中なのか、それとも作ることのできない人間なんだ。それが、ほかの探偵ものと大きく違うところだろう。そのあたりは、フィクションのもたらすものとは何か、などと考えてしまった。

そうした読み方をしていたぼくは、次の箇所がぐっときた。
山よもぎの平原を、ニールの乗った青毛の馬が、雪を蹴散らし、冷気を切り裂いて、なめらかで鋭い漆黒のナイフのように走っていく。(中略)
死に物狂いの、恐怖心でいっぱいの、そして爽快感みなぎるレースだっ た。雪を踏み鳴らす蹄の音、馬の鼻息、ニール自身の鼓動、・・・すべてがリズムを刻み、すべてが溶け合っている。鼻腔を満たすかびくさい馬のにおい、一面 の山よもぎ、それを覆う雪。そして、冷気にあらがう馬の体熱、服の下で汗ばんた自分の肌、背中にしがみつく小さな体の湿ったぬくもり・・・ほら、ぼくは生 きている!(P.412 )
前二作と比べると、最後のアクションが手に汗握る率2割増し、「父さん」グレアムと、「上司」レヴァインたちとのチームタッグもみどころ。

ウォータースライドをのぼれ
1994 アメリカ A Long Walk Up the Water Slide ドン・ウィンズロウ Don Winslow 創元推理文庫 389p 

待望の、といっていいだろう。ドン・ウィンズロウのニール・ケアリーもの第四作。アメリカでは1994年に出版されている。10年まったのかよ!ぐぐ。

前作「高く孤独な道を行け」で、 生活面での孤独はついになくなったニールは、パートナーのカレンと暮らしている。平和な毎日に、またもや父親代わりのグレアムが仕事を持ってくる。人気テ レビ番組のホストにレイプされた、というスキャンダルの渦中の人物、ポリーをかくまい、ひどい英語を矯正する、というものだ。しかし、あっけなくポリーの 居場所は知れわたり、何人もの殺し屋だとか探偵だとかFBIだとかポルノ出版だとかギャングだとかがニールとポリー(とカレン)に襲いかかる。ようやくラ スベガスへと逃げ出すまでが第一部。つづく第二部ではラスベガスでもっと奇妙な追いかけっこが繰り広げられる。

著者が楽しんで書いているのがこちらにも伝わってくるようだ。ポリーの話す英語はむちゃくちゃで、訳文もそれをよく伝えている。
「あぬしと、あちしにはやさしかっち。ニューヨックにきっちゃん、あちしぬ部屋こもっち、しぽしぽ、しぽしぽ・・・」
という感じ。江戸弁と大阪弁と名古屋弁と、そのほかもろもろのちゃんぽんだ。

また、話の展開も楽しげで、爆笑ポイントがいくつかある。読んでいて声を出して笑ってしまったところもあった。女三人抱きって泣くところとか。

し かし、なんというか、笑ってばっかりなんだよなぁ。前のようにぐっと来るところが少ない。というか、ほとんどない。軽妙で、探偵が主人公で、この話、こ の先どうなるんだろう、という気持ちもあり、最後まで一気に読める。(一晩で読んだ)また、悪役は、クリントンをすぐさま連想させる(とはいえ、モニカ事 件の前にこれが書かれていたのは驚き)でも、ものたりない・・・。

ニールが孤独ではなくなっているから?パートナーがいて、仲間がいて、やるべき仕事があるから?それもあるかもしれない。けれども、やはり、作家の小説を書く姿勢の変化が見てとれるのだ。

けれど、ともう一度考える。姿勢は変化したんだろうか?つまり、もともとドン・ウィンズロウはこうした話を書きたかったんじゃないか?そこに孤独が描かれていたのは、それは小説を読みやすくする、または感情移入しやすくできるためのスパイスだったんだろう。

前作までがストリート・キッズ1991、仏陀の鏡への道1992、高く孤独な道を行け1993、 と一年ごとに書いていて、このウォータースライドをのぼれ は1994。そして一年おいて、シリーズ最終作While Drowing in the Desertは1996。自分の書くものが、ニールケアリーシリーズに合わなくなってきている、と感じていたのではないか。

この喜劇はとてもよくできていて、面白く読めたことは確かだ。そして、職業作家として一段上がっていることも確かだ。けれど、前作までの「孤独な」ニールにもう会えないのは、やっぱり少しだけさびしい。

でも、現実世界はそうして変わっていくものだけれど。

あー、あと、ラストのシーンはフロストシリーズ(どれだっけ)のラストをちょっと思い出しました。

土浦の朝市 ニコマルシェに参加してきました


先日の1月17日の日曜日、土浦市役所すぐそばのニコニコ珈琲さんにおいて開かれた、ニコ・マルシェにトリクシスブックスが参加してきました。当日は8時からということで、6時半頃家をでました。放射冷却で凍ったフロントガラスをワイパーで溶かしながら車をとばしました。

やっぱり対面販売はいいですねえ。いろいろとお話をしながらの店番が楽しかった。
「昔を思い出してまた読もうかしら」といってサガンを買っていった方。
「はじめて読むんですけど松本清張で一番のおすすめは?」といわれた方。
「ガープの世界が一番好きなの」とアーヴィング話でもりあがった方。
「面白そうな本ばかりですね」といっていただいだ方。ショップカードをおほめいただいた方。
あっという間の三時間でした。

はじめての参加でしたが日当りのいい暖かい場所にしていただき、感謝。
今回の参加にあたり快く許諾いただいた主催、ニコニコ珈琲さん、いろいろ応援してもらったダヴィットパンさん、そして立ち寄ったり買ったりしていただいたお客様みなさまに感謝します。39 baby!感謝for you! 

次回は2月21日だそうです。この次はモア・ベターをめざして。
※写真は品定めをする謎のコルシカ人(笑)