Friday, October 9, 2009

shop card#1



shop card 第一弾。女の人には受けなさそう、と言われました。

so beautiful


photo by michikazu, my son.

Wednesday, October 7, 2009

kindle発売

前々から気になっていたAmazon Kindleが日本でも買えるようになった。すごく気になります。まだ英語しか表示できないらしいし、まだまだ洗練されていく余地はあるのだろうけど、iPodのでた当初もそうだったように、4−5年もすれば相当本気で使えるのではないでしょうか。
正直言って、少し欲しい。Kindle DXがいいなぁ。もっと安くならないかなぁ。なるでしょうね。

これから古本屋をやろうというのに、何事かといわれるかもしれませんが、わたしはこうした電子ブックと紙の本が敵対関係にあるとは思えません。補いあう関係ではないでしょうか。
雑誌や新聞はどんどんKindleのようなものやiPhoneなどで読まれるでしょう。

そして紙の本はどんどん重要になっていくでしょう。高価になるかもしれません。今、CDとデータとアナログがあるように。最近の気になるCDはかならずアナログ180g重量盤が作られています。量はもちろん少ないのでしょうが、それでも商売になるのでしょう。CDの販売、データでの販売よりもライブ収益の方が高いということもあります。いいことじゃん。
なので、あまり騒いだりすることはないと思います。

という視点に立つと、一個人の興味としてKindle便利で読みやすそうで、よさそうなのです。ペーパーバックや雑誌を読む代用品としては。

Tuesday, October 6, 2009

毎日更新しないといけない のか?

毎日更新していると、読みにくる人は増える。これは確実。
でも、テレビを見ているとわかるように、毎日更新するために、ろくでもないことを流すことも嫌だ。
穴埋めでも、楽しめるものを。

開店マジか 間違った。 間近!

Monday, October 5, 2009

共鳴するところとしないところ

ほぼ日の本、という本を読んだ。
イトイ新聞についての本。(うまくいえるかなぁ)
立ち読みした「考える人」という雑誌に、広告の仕事から離れていったときのことはほぼ日の本に詳しく書いてある、と書いてあったので、そっちも立ち読みしたら、もう少しちゃんと読みたくなったので買って読んだ。

糸井重里というひとは、子供の頃、まぁ、告白するとあこがれの対象の中にいた。橋本治とか。村上春樹もその中にいた。中学生ぐらいの頃。1980年前後。何に憧れていたんだろう。軽さ?言葉を扱う職業だから?文化とのつながり?まぁ、よくわからない追っかけのようなものだった。中学生だからなぁ。そういえば、若者たちの神々、って本もよく読んだなぁ。

その後、あっという間に興味の対象から外れていったのは、なんでだろう。覚えていないけれど、いつからか面白くない、と思った。バンドや、演劇の方がずっと面白かった。ついでに告白すると、さらに野田秀樹へいき、坂口安吾に出会い、今に至るといっても過言ではない。そりゃ、安吾と比べる方が悪いか。

いろいろあって、広告の仕事をするようになってからはなんだか昔思っていた、つまり、イトイがおもしろがっていたように(みえたように)面白い仕事じゃないんだ、と思った。別の面での面白さはあったけど。それはまた別の話し。

それで、なんだか昔好きだったけど、もう気持ちはさめさめ、という女の子にたいするような、少し複雑な気持ちを抱えていた。

ほぼ日の本を読んで、ああ、そうだよなぁ、と共鳴するところと、それはまったく違うね、と思うところと、ぽつりぽつりとあった。

広告制作の仕事について、
「もともと広告の媒体を商いする代理店が、不動産会社のように『媒体という土地』を売って、その利益の一部を「クリエイティブ」と呼ばれる制作部門の経費にまわしていた。長期の不況でメディアの安売りがはじまると、利益の中からクリエイティブに「おこぼれ」をまわす余裕がなくなってきた」
「広告媒体は増える一方だからメディアの相対的な価値はさらに下落し」
「代理店の媒体を売り買いするときのマージンは今までの何分の一かになっていくだろう。そうなったときにはフリーのクリエイティブの仕事の人間に「おこぼれ」をまわすことなどできなくなる」
というのはまさにそうで、広告の仕事は今やどんどん上流で行われている。最終的にはクライアント自らが制作することになるんだろう。広告制作会社、というのはなかなか存続しにくい形態なのではないか。すくなくとも、大もうけできるような仕事ではなくなってきている。

(この、大もうけできなくなる仕事、というのは今やすべてにおいてそうで、出版でも、音楽でも、流通でも、町の八百屋さんや鉄工所とおなじぐらいのスケールになりつつあるというのが実感。まぁそれはいいとして)

媒体という土地は下落する一方だから、なんとか利益を上げることのできる媒体の開発を代理店は行っている。一時はウェブが利益を上げることのできる媒体だったが、そうではなくなってきた。さんざん苦労しているけれど、うまくはなかなかいかない。だから、既存のやり方で薄い利益でなんとかやっている。やっていけないところもでる。しわよせはおこぼれを授かっていたところにくる。実際のデザインやそれこそウェブ制作会社などは、おこぼれが極端に少なくなるが、それでもいい、という人はやっている、という状況が、今現在。

イトイ新聞がやってのけたのは、下落しない媒体の開発なんだ。銀座の目抜き通り、という表現が本の中にもあったけど。広告の仕事の基礎工事をやって、そのうえでやっているのはやっぱり、広告だ。いいじゃん。
それがね、なんでこうも腑に落ちないのか。

きっと、何を大事にしているかが違うので、もうそれはなんというか、やっぱりうまくいえないけれど。
そりゃなにからなにまで共鳴することはできないよなぁ、と当たり前のように思う。

スケールの話しかなぁ。たとえば「大量生産品ではないものを確実に育てていく場は大きな広場の方がいい」「大きな都市である東京には、とにかく無数の仕事がある」とか、こういった考え方は今のぼくと相当違う。

または、こんなところ。
「商品そのものに魅力のないものを、いくら広告で売ろうとしても、本当は無理なのだ」
完全に正しい。
そして、おそらく「魅力のある商品」を、作ることのできる場としてイトイ新聞は機能してる。いいじゃん、理想じゃん。
でも、自分で考えだしているのは場であり、またはそれをクリエイティブに広告する、というところで、その根幹の商品そのものではない。ここかなぁ。でも、全然それでいいじゃん。とも思う。

この違和感をことばするのは相当難しい。
拡大しなくても幸せに暮らせる、だろう?ってことかなぁ。
それぞれの言葉にひもづくイメージの個人差や、言葉に対する感情の違いがすごく大きいんだけど。「拡大」「幸せ」「暮らし」。きっと、その言葉の後ろが本当に人それぞれで、それによって人生が変わるんだろうなぁ、と。

そんなことを考えています。それにしても長いなあ。少し疲れちゃったよ。