Saturday, November 7, 2009

thumbs up!


photo by michikau.

Friday, November 6, 2009

クレジットまで何マイル?


クレジット決済の書類届く。
もう少しでクレジット決済導入ができそう。

Thursday, November 5, 2009

blurred world


photo by michikazu.

Tuesday, November 3, 2009

広告とは本質的に暴力

例えば、ぼくは島耕作という漫画が虫酸がはしるほど嫌いなんだけど、最近アクロバットのバナー広告であの顔が非常によく出る。もうその度にページを消したくなる。消すまでは行かないけれどなるべくそこをみないようにし、早めにスクロールするようにする。

別のことを考えていて、広告批評のことを調べていると、天野さんのインタビューがあった。
ここに、「テレビCMは暴力的」という一言がでてきてはっとした。

テレビCMだけではなく、バナー広告までも含めて広告とは本質的に暴力なんだ。

その(商品の価値観、だけではなく商品を使う生活の)価値観の伝え方は一方通行でこちらの都合は無視されている。というか、占領されることがよいとされる。価値観の占領こそ、広告の目指すところだ。

もちろん、ソフトなものからハードなものまで、その表現(クリエイティブという言葉を使うならそうだけど、創造的というよりは技術的)はさまざまで、マッサージ的なものもあれば本当に無理矢理そちらを向かせる、というものもある。けれど、その本質はやはり暴力だ。

国のシステムは収奪と再配分だけれど、企業には実は再配分の機能はない。暴力的に収奪され、その見返りは、買ったとたんに古くなる「最新商品」だけだ。(その回転が経済と信じられているけれど)(実は違うと思うのだけれど)

広告が暴力であるということを知っている広告はさらに息苦しくなる。狡猾の域に入っているからだろうな。そして、そうした広告があふれている。特にテレビなどの既存広告には。
そして、ウェブの広告はそのポータルサイト作りからバナー広告、SNSまで含めて暴力的でないはずだったのに、全くそんなことはなかった。広告とは、既存メディアか新しいメディアかに関わらず、暴力なんだ。
と、あの大嫌いなバナー広告をみてそう思う。

(バナーが消せるソフトがあるよ、ということは、テレビCMがHD録画で跳ばすことができるよ、というぐらい意味のないこと)

結局、テレビとおなじく不動産のやりとりのようなことが行われている。視聴率のかわりにPVで立地条件をかえ、動産価格をつり上げ、枠を誰が持っているか、が広告の価値につながっている。動産価格のためにPVを増やさなければいけない、そのためのウェブの企画であり、その制作である。まったく同じ構造なんだ。

最近の雑誌休刊は実は広告環境の変化にすぎないと思っているんだけど、その一番のポイントである広告批評が今存在しないということはシンボリックだなぁ。

広告の本質は露呈し、それは変わらない。

天野さんもインタビューの最後の方でいっているけれど日本のグラフィックデザインはすばらしい。仲畑貴志さんのような、言葉の技術のすばらしい人もいる。

だけどその技術は、実は暴力の基盤のうえで繰り広げられている技術の巧拙でしかなかった。それでいいじゃないか、という自分と、そうだったのか、と驚いている自分がいる。